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2006 年10 月28 日

裁判員制度と日本語

 冷泉彰彦著「関係の空気、場の空気」(講談社現代新書)を読んだ。的確な指摘がなされていると思った。

 国際関係、少子化、高齢化等々、それぞれ深刻な論点なのに、激しい対立もなければ現実的な妥協もないまま、何となく何かが決まっていく、あるいは先送りされていく。多くの人間が一堂に会する場で、空気が場の全体を支配してしまった結果、合理的でない意思決定が、場全体の責任、つまりは誰もが責任をとらない中で既成事実化していく。そんな日本社会の問題の中心には日本語があるのではないか。日本語は、1対1の私的関係では、その「関係の空気」を共有することを前提として、省略表現、略語、隠語等を使った豊かなコミュニケーションを実現するが、3人以上の場では、その日本語の長所は「場の空気」を権力化させることになる、というのが著者の仮説だ。そこで、公的な場では、お互いがどの程度の智識を共有しているかを確認しながら、対話者の言語形式の対等性を確保するために敬語や「です、ます」調を用い(その対極にあるのが小泉前首相のしゃべり)、その訓練として教育現場では教師も生徒も「です、ます」のコミュニケーションを教えるべきだという。

 著者は裁判員制度についても次のような的確な指摘をしている。裁判所においても、ぜひとも本書を一読されたいものだ。
「私はこの制度(裁判員制度のこと)が成功するか失敗するかは、敬語の問題にあると思う。問題の一つは、判事と裁判員が、あるいは饒舌な裁判員と寡黙な裁判員が、「対等」に審理を進めることができるか、という点である。この点に関しては、私は「敬語を使う」べきだと考える。いや「敬語の使用を強制すべき」と言っても良い。それも「です、ます」だけでなく、判事も裁判員も相互に尊敬語を使うべきだと思う。そうでなくては、刑事事件の審理という「公的な」言語空間は成立しない。少しでも「タメ口」を認めたら、法曹のプロである判事の発言権が、あるいは何らかの予断を持っていたり、たまたま犯罪心理マニアだったりする「饒舌な」裁判員の声が、他の裁判員を差置くことになる。そして、そのような状況を日本語は著しく助長する。客観的な証拠調べ、判例との比較ではなく、「場の空気」が判決を生み出すようなことでは、せっかくの新制度が台無しである。(略)審理の中では判事が、過去の判例なり、法曹の常識とし想定しうる量刑の範囲などを「レクチャー」する局面もあるだろう。そうした場合でも「どうですか、おわかりいただけましたか。少しでも不明瞭なところがありましたら、どうぞおっしゃってください。あるいは皆さんそれぞれの人生経験や社会常識に照らして、申し上げたことに異論がありましたら、それもおっしゃってください。」というような話法を維持すべきである。」

投稿者:ゆかわat 01 :19| ビジネス | コメント(0 )

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